日曜日, 11月 05, 2006

徳についての話 第一夜 「徳は目的ではない」

これから何回かに分けて徳についての話をしたいと思う。第一夜は「徳は目的ではない」と言う話。
何も素っ頓狂な事を言っている訳ではない。これは徳治政治が始まった頃から言われている事でもあり、第一級資料の「Virture」にも記されている事である。
徳とは、社会正義の実現や理想社会の現実化に際して、手段として或いは道筋として用いられるものである。そう、理想社会を実現する為には、徳の力が必要なのである。だから我々はより良い社会を見出し、築き上げる為に徳性を磨く事が求められる。徳の力無しにそれは達成不能なのである。
この事を知る多くの賢人たちが、徳の追求を求めて様々な修行を行ってきた。徳とは何ぞやと問いかけて来た。しかし、多くの賢人には自明のものであるにも拘らず、多くの人々に理解されていないある種の事柄がある。それは、徳の用いられ方である。
実に多くの人々が「徳」その物が善性を帯びているかのごとく感じ、徳を極める事がすなわち善であるかのごとく誤解をしている。そうではないのだ。徳そのものはある種の「力」に過ぎず、徳の力は用いられ様によっては悪をも引き込む。あなたはより多くの力を求めてフェルッカシャードのチャンピオンスポーンにチャレンジした事はあるだろうか? もしその経験がおありなら、殺人者と徒党を組む「殺人を犯した事の無い」悪党が、正義の徳を輝かせて略奪に参加し、その徳の力を用いてより多くの神秘の巻物を手にする様を見た事があるかもしれない。或いは名誉の徳を用いて敵の嵐の中を突き進み、名も無き冒険者を敵と共に屠る様を見た事があるかもしれない。それらに用いられている力は、まさしく徳の顕現であり、作用である。徳は理想社会の実現に欠かす事のできぬ道具の一つであるが、それはまた理想社会以外のものをもたらす事もあるのである。徳は、単体では道具に過ぎないのである。なるほど確かに徳はそれ自体である種の悪をなす者に対して理不尽なまでに冷たい仕打ちを行うが、徳自身は必ずしも善を志向しない。
徳は哲理によりてもたらされる「力」ではあるが、哲理ではない。その本質がある種の「力」である以上、それは他の力と同じく用いられ方によって様々な効果をもたらし、善も悪も…両方を引き込む可能性を秘めている。魔法も然り、剣の力も然り、言葉の力も然りである。それは力であり、力は単独で何かを志向する事はないのだ。
では、我々は何を求めてその力を用いるべきか…提唱者である国父ロード・ブリティッシュは明確に述べている。それは理想社会の顕現を目指して用いられるべきである。
そして困った事に…ソーサリアに徳が提唱されて以降数十年の時が流れているにも拘らず、我々は未だ「手段であるはずのもの」に梃子摺り、その目標とする「理想社会」について言及する事を怠ってきた。
ある国の武芸をよくする者は、こう語った。

月を指差すようなものだ。指先に囚われてはその先にある大いなるものを見落としてしまう。

我々は今一度、徳とは何か、徳が指し示すべきものとは何かを考えねばならぬ。その先にある大いなるものを見ずに指先にこだわり、指先の美しさ、その磨きぬかれた白魚の如き指の先にある爪の優美さに心囚われてはならんのだ。徳という道具を上手く使いこなし、我々はその先にある大いなるものを見つめねばならない。それこそが、提唱者ロード・ブリテイッシュの語る「徳治政治」であり、社会全体が目指すべき平和社会の実現に必要な事であると、私は考える。

1 件のコメント:

  1. あー これ。UO本の素案ね。
    Piremin名義の本になるか、名も無きどっかのおっさん名義になる予定。

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