火曜日, 12月 13, 2005

八徳探訪

戦技研で少し八徳関係のネタに触れたのでもう少し掘り進めて八徳を考えてみよう。

八徳に関する興味深い小文がある。UO XIの公式サイトに掲載された物らしいのだが、それの訳出を孔雀氏が行っている→参考

ゲーム小僧に向けた小文としては中々の出来だと思う。正直ここまで雰囲気に凝っても人々の心には中々響かないのでは無いかと危惧してしまうほどなのだが…まぁ、話を進めよう。
以前から私も指摘してきたが、徳と徳によってもたらされる物は個人に帰ってこない。徳とは最終的に社会に還元されるものであり、理想社会の実現を目指す為に設定された物である。
先に挙げた小文を読んでみよう…三番目の男に指摘された先の二人の主張は、全て徳を個人に反映させようとしている。実際問題徳を極めたとして…徳を極めれば弱者が強者になり、蔑むべき者が速やかに気高く高貴な魂を得るだろうか? 答えはノーだろう。そんな魔術的な物ではない。
しかしこれは言える。徳の定める所、目標とする所に「同調する人々」が増えれば、恐らく総体としての社会はより良いものになって行くだろう。人々が武勇の何たるかを知れば、己が攻撃を喰らわない状況下で敵にダメージを与えて獲物を掠め取る「横殴り」なる蛮習は消え去るだろう。誠実である事を旨とすれば詐欺を仕掛ける事も無いだろう。
結果…個人の「得」は減少するかもしれないが、結果として社会全体が「得」をする構造になる筈だ。
そのシャードの人々が皆気立てが良く、勇猛であり、誠実な取引をすると噂が立てば…より多くの者がそのシャードを訪れる事になるだろうし、他のシャードも「負けていられるか!」とばかりにより良い世界構築を目指すかもしれない。しかしミクロな部分…個人の損得で見れば決して「個人が」得をする状況が顕在化する事も無いだろう。心穏やかに休日の一時を過ごす機会が増える程度の余禄はあるかも知れないが。

徳とはその様なものであり、最終的に人々が自分の属する世界を愛し、その世界に対する奉仕の心が無ければ推進される事が無いであろう概念なのである。基本概念は自分が得る(可能性のあった)過剰な取り分を皆に分配する…こんな所だろうか? 皆がこぞって徳を目指せば僅かな得が積もり積もって大きな物になるだろう。言い方を変えれば、徳の求める世界は「自他共栄」の世界であると言える。

結局のところ、各人が自分の取り分を過剰に求める世界では最終的な「徳の世界の実現」は程遠い。
より多くの取り分を求めて戦士の構成を最適化し、ある種のマテリアルを独占し、他者を出し抜こうとする姿は徳の求める世界とは別の姿となるだろう。富や喜びの過剰分を他者に配分する気持ち。これが徳を推し進める原動力となる。
そう考えると、UOの楽しみ方を他者に伝えようとする姿は「献身の徳」に通ずる物だと言えるだろう。
戦士の戦い方を教える戦技研は武勇の徳に通じるかもしれない。
ゲームの世界の外でも、八徳を推し進める事は可能なのでは無いか?

これらの推論から、私は「徳システム」の改善を訴求するべきだと考えている。現状の徳システムは最終的に頑張ったプレイヤー/キャラクターに対するご褒美でしかなく、その本質が徳が本来目指していた物と乖離してしまっている。

ここらで一発「何を求めての徳なのか」を考え直すべきじゃねーかと。

2 件のコメント:

  1. 徳システムは是非とも改善して頂きたい!!
    私も切に願っていますが(願うだけじゃダメか…)、システムが我々の要求を満たしてくれないのならば、各プレイヤーが徳の理念に沿って行動したらどうやか?とも思っています。

    それはタダの自己満足に過ぎないのかもしれませんし、周りの人間に気付いてすらもらえないかもしれませんが…。

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  2. ?これが『徳』でございます、と指し示すことの出来ないものが徳の徳たる所以でありまして・・。
    それをまた社会の仕組み(システム)に組み込むこと自体、冒険というか随分乱暴な話でもあると思うのですよ。
    以前若い衆に「徳はどこにある」と聞かれまして「我が胸中に在り」と答えましたら、斧を手にとって「じゃあ割って見せてくれ」と詰め寄られましたわい(滝汗)
    そういうもんじゃないんですがねぇ?

    と、ドリア先生なら言いそうな感じです。
    とりあえずU9のテキスト使って、徳の座談会とか面白いと思いますよ。Izumoでは武勇について開催したことはあります。
    眠気さえ来なければ刺激的な60分になることは間違いないかと。

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