これ
以前愉快な人が愉快な事に「お前の日本語おかしくね?」って私に突っ込みいれる文章で、見事日本語としておかしい文章を掲載していた時のスレッド。
んー
んんんー
なんか、どこぞで似た匂いを嗅いでしまうのだが。と言うか、某所の文章読んで速攻この事思い出した。うわー懐かしー。こんな事あったねー・・・みたいな。
まさか彼は、文章修行の為に一センテンス内に3つ以上の文を入れるように努力したりしてしまう愉快星の愉快な人々と関わりのある人なのだろうか? そういやその筋のあの方はUOの古参であると吹聴していたような・・・そんな記憶が朧気に。(しかしよー覚えてるな、俺も)
前に類似の事例を挙げることも無く「XXも」とか書いちゃう癖もあるが、これは最近多い誤用だからなんとも言えないなぁ。そういえば主幹一人に数人の取り巻きが居た気も。
どーなんでしょう。残念な事に以前生暖かく見守ってた頃の彼の文章ログが紛失してしまい、かの文章と以前の文章の文体比較をする術が失われてしまっている。それが残ってればふふーん、ほへーんと色々妄想をたくましくして遊ぶ事もできるんだけどなー。
まぁ、確証無いし。今の段階では妄想を更にたくましくして色々ニヨニヨ見守るしかない。
楽しみがまた増えた!
.....And Pain.
By "Populous" main thema.
月曜日, 11月 13, 2006
金曜日, 11月 10, 2006
パロリシャン
やぁ、時代はこの様なエセアメリカ人的コメントだと思うんだ(挨拶)
パラリをパロってパロリシャンができたのだ。冗談がキッツいと云う向きもあるだろうが、中々に面白い切り口狙ってるなと。戦技研から積極的にリンクしようとは思わないが、これはこれで個人的にはアリかなとも思うのでこっちからはとりあえず一方的にLink張っとく。
少しまじめな話をすると…
今回、パラリで問題になった経緯とか知らないんだけど、まぁ恐らく問題箇所は「Hato」ネタではなかろうかと、そう思う。てっきり私は将軍様ネタがあるのかと思っていたのだが、検閲したのか元から無かったのか…過去ログでは見つからなかったしな。 現行のログで見える範囲ではそう考えるしかない。
で、そのHatoネタだけど…いやさ、正直PvP関係はよー知らん。ただ流石に規約違反(ツール肯定)を居直り強盗的に肯定するのはどうかと思うが。それもある意味でHato氏の「隠さずに実情を語る」スタイルなのかなぁと好意的に捉え…られないよな(苦笑)
どーも誤解されている風味なので追記しておくが、Hato氏の語ってる事の断片ぐらいは一応知ってるんだ。(ウザとか本スレで話題上がるし)
ただそれが「一般的PvPerの中で」どう思われているのかは、よー知らん。
あの漫画自体はその辺の背景情報含めて「ウザスレ方面の様式に従った形で」楽しかった。あーあんな感じだ確かに、と。
それらの問題部分以外では、あの語り口調が中々に面白い。
アメリカ人的というか、アメリカ通販的というか…やぁ、どうしたんだいスティーブ? みたいな。
あれも極めれば芸だからなぁ。
がんばって欲しいものではある。
追記:
読ませない為とはいえイタリックの長文はきついっス。
パラリをパロってパロリシャンができたのだ。冗談がキッツいと云う向きもあるだろうが、中々に面白い切り口狙ってるなと。戦技研から積極的にリンクしようとは思わないが、これはこれで個人的にはアリかなとも思うのでこっちからはとりあえず一方的にLink張っとく。
少しまじめな話をすると…
今回、パラリで問題になった経緯とか知らないんだけど、まぁ恐らく問題箇所は「Hato」ネタではなかろうかと、そう思う。てっきり私は将軍様ネタがあるのかと思っていたのだが、検閲したのか元から無かったのか…過去ログでは見つからなかったしな。 現行のログで見える範囲ではそう考えるしかない。
で、そのHatoネタだけど…いやさ、正直PvP関係はよー知らん。ただ流石に規約違反(ツール肯定)を居直り強盗的に肯定するのはどうかと思うが。それもある意味でHato氏の「隠さずに実情を語る」スタイルなのかなぁと好意的に捉え…られないよな(苦笑)
どーも誤解されている風味なので追記しておくが、Hato氏の語ってる事の断片ぐらいは一応知ってるんだ。(ウザとか本スレで話題上がるし)
ただそれが「一般的PvPerの中で」どう思われているのかは、よー知らん。
あの漫画自体はその辺の背景情報含めて「ウザスレ方面の様式に従った形で」楽しかった。あーあんな感じだ確かに、と。
それらの問題部分以外では、あの語り口調が中々に面白い。
アメリカ人的というか、アメリカ通販的というか…やぁ、どうしたんだいスティーブ? みたいな。
あれも極めれば芸だからなぁ。
がんばって欲しいものではある。
追記:
読ませない為とはいえイタリックの長文はきついっス。
月曜日, 11月 06, 2006
徳についての話 第二夜 「徳と徳の目指すもの」
全ての徳には反徳と呼ばれる概念がある。一見それらは一本のロープの端と端の如く対極に位置する概念と思われがちだが、果たしてそれは事実だろうか?
たとえば武勇にしても…ブリティッシュ王の玉座を基点として北に向かえば武勇、南に向かえば卑怯となるのであろうか? またその基点は常に磐石で定まった位置に在るのだろうか?
つまり私が言いたいのはこういう事である。バルロンは強い。あの漆黒の悪魔を弱者と考える者は少ないだろう。それに対して同系種族であるモンバットは弱い。弱さの指標として「お前はモンバットか?」と例えられるほどに弱い。しかしここで問題だが、駆け出しの冒険者がモンバットに死を賭けて挑みかかるのは卑怯で武勇の名に反する事だろうか? 或いはこう言ってもいい…バルロンは確かに強いが、幾つかの技術を習得して古代の遺産に身を包んだ冒険者の前には比較的簡単に討伐され得る存在である。その様な強大な力を手にした者がバルロンに挑み、ほぼ10中9.5まで確実に彼らを屠るのは、武勇を高める行為であるだろうか?
宜しい。バルロンを屠る彼の行為が武勇で無いとしよう。では彼がわざわざ装備を脱ぎ捨て、素手で彼らに挑み、そして10中9まで彼らに屠られるのは武勇であろうか? 私はそこに「驕り」を見出し、「愚かさ」を見出す。それは決して「勇気」の成す業ではなく、酔狂か、本当に酔っ払っているか、狂っているかであるとさえ思う。
翻って考えよう。武勇とはいったい何なのだろう?
武勇を磨こうと思って強靭なる鎧をまとい、剣を手にし、勝つべくして彼に勝つ事にどのような「武勇」があると言うのか?知り合いのある男はこう語った。剣で片のつく相手は「本当の敵」ではない。本当の敵には剣など効かず、本当の敵と戦うのに剣は不要であるとさえ言った。(最も、この言葉自体が孫引きであると言う話だが)
武勇と言うのは、そのマークが示すものとは異なり現実的な武力ではないのだと言う。
そう考えたとき…実際には雄々しく戦っているように見えても、実際のところそれは「武勇ではない」可能性が出てくる。
然しながら、現実問題として武勇の徳を極める為にイルシェナーで霊性のシャドウウィスプを虐殺するものも少なくは無く、その結果として武勇の騎士位を極めるものも多い。実際に武勇の徳の蓄積と武勇の心と言うのは一致しない場合があるのである。
ある場所である騎士が嘆いていた。献身の徳を積むべく人々をエスコートするものが居る。しかし彼は効率良く献身の徳を積みたいと考え、何とかして簡単に、楽に人々をエスコートする術はないかと悩んでいたと…彼は献身の徳を真の意味で身につけているのだろうか?
これも考え方一つではないか?
多くのエスコートを待つ人々がおり、彼は自由に世界を行き来できない人々が多数存在する事に心を痛めていたと。しかし彼の身は有限で、多くの人々を一斉に連れ回すことはできない…彼が真に人々を思いやり、彼らの苦しみを救済したいと考えて「もっと効率的にできぬものか…」と悩むのであれば、それは献身の名に相応しいだろう。単純に徳の持つ力に焦がれてそう考えているだけかもしれない。しかし現実問題として徳の力はいずれの場合にも蓄積されていくのである。徳の力は背後にある人々の思惑は全く無視して蓄積されていく。なぜならそれは純粋に力だからである。
そして最も重要なのは、徳の力を溜める事ではなく、それをどう用いるかと言う部分にある。どんなに高邁な思想が存在し、その思想に従って徳が貯められても、その使い道が正しくないのであれば、それは誤った徳の用いられ方であると言える。逆にどのような貯め方であっても、その蓄積された徳が善用されるのであれば、それは徳の使い方と言う部分に限ってみた場合に、正しい。
勿論、正しく貯めて正しく用いられるのが最善ではあるが、悪しき方法で貯められて善用される事と、良き方法で蓄積されて悪用される事…いずれが「望ましい」(全体を通して、である)かは判断の分かれる所であろう。勿論、悪しき方法で貯められて悪用されるのは最も悪しき事であるのは言うまでもない。
更に翻って考える、卑怯であったり不誠実である方法で善を成した場合、それは良い事であろうか? 悪い事であろうか?
反徳の方法を用いて善を成すのは、全体を通して見た時に善であるか、悪であるか?
私の論を丹念に読んでくれたのであれば、答えはおのずと出るだろう。徳は力であり、それ単独で尊い物ではなく、その背後にある目的によって善悪の判断がなされるのである。その目的をしっかり見据える事こそが重要であり、そこに至る道筋は善なるものであればそれに越した事は無く、そこに至る道筋が悪なる物であっても結果が善性を向くのであれば良しとされねばなるまい。
最初の問いに戻ろう。
あなたは駆け出しの冒険者である。包帯も残り少なくなり、体は傷で覆われるが如き惨状である。それでも尚、あなたは何かを守るために「あなたにとって強大である」モンバットを打ち倒さねばならない。あなたは剣を握り突進する…これは武勇であるか、否か?
あなたは古今東西稀に見る槍使いである。余所見をしていてもバルロン如きは赤子の手をひねるよりちょっと難しい程度の労力で打ち倒せてしまう…特に恨みや背負うものがある訳でもなく、あなたは気分(或いは稼ぎのために)でバルロンを打ち倒し続ける。これは武勇であるだろうか?
時に我々はその背後にあるものを無視して「現象」だけを気にする。時にそれが徳に合致するか否かで善悪を判断する。
反徳すなわち悪なのだろうか? 徳すなわち善なのであろうか? その様な事を考える私の心は既にバルロンに蝕まれているのだろうか?
たとえば武勇にしても…ブリティッシュ王の玉座を基点として北に向かえば武勇、南に向かえば卑怯となるのであろうか? またその基点は常に磐石で定まった位置に在るのだろうか?
つまり私が言いたいのはこういう事である。バルロンは強い。あの漆黒の悪魔を弱者と考える者は少ないだろう。それに対して同系種族であるモンバットは弱い。弱さの指標として「お前はモンバットか?」と例えられるほどに弱い。しかしここで問題だが、駆け出しの冒険者がモンバットに死を賭けて挑みかかるのは卑怯で武勇の名に反する事だろうか? 或いはこう言ってもいい…バルロンは確かに強いが、幾つかの技術を習得して古代の遺産に身を包んだ冒険者の前には比較的簡単に討伐され得る存在である。その様な強大な力を手にした者がバルロンに挑み、ほぼ10中9.5まで確実に彼らを屠るのは、武勇を高める行為であるだろうか?
宜しい。バルロンを屠る彼の行為が武勇で無いとしよう。では彼がわざわざ装備を脱ぎ捨て、素手で彼らに挑み、そして10中9まで彼らに屠られるのは武勇であろうか? 私はそこに「驕り」を見出し、「愚かさ」を見出す。それは決して「勇気」の成す業ではなく、酔狂か、本当に酔っ払っているか、狂っているかであるとさえ思う。
翻って考えよう。武勇とはいったい何なのだろう?
武勇を磨こうと思って強靭なる鎧をまとい、剣を手にし、勝つべくして彼に勝つ事にどのような「武勇」があると言うのか?知り合いのある男はこう語った。剣で片のつく相手は「本当の敵」ではない。本当の敵には剣など効かず、本当の敵と戦うのに剣は不要であるとさえ言った。(最も、この言葉自体が孫引きであると言う話だが)
武勇と言うのは、そのマークが示すものとは異なり現実的な武力ではないのだと言う。
そう考えたとき…実際には雄々しく戦っているように見えても、実際のところそれは「武勇ではない」可能性が出てくる。
然しながら、現実問題として武勇の徳を極める為にイルシェナーで霊性のシャドウウィスプを虐殺するものも少なくは無く、その結果として武勇の騎士位を極めるものも多い。実際に武勇の徳の蓄積と武勇の心と言うのは一致しない場合があるのである。
ある場所である騎士が嘆いていた。献身の徳を積むべく人々をエスコートするものが居る。しかし彼は効率良く献身の徳を積みたいと考え、何とかして簡単に、楽に人々をエスコートする術はないかと悩んでいたと…彼は献身の徳を真の意味で身につけているのだろうか?
これも考え方一つではないか?
多くのエスコートを待つ人々がおり、彼は自由に世界を行き来できない人々が多数存在する事に心を痛めていたと。しかし彼の身は有限で、多くの人々を一斉に連れ回すことはできない…彼が真に人々を思いやり、彼らの苦しみを救済したいと考えて「もっと効率的にできぬものか…」と悩むのであれば、それは献身の名に相応しいだろう。単純に徳の持つ力に焦がれてそう考えているだけかもしれない。しかし現実問題として徳の力はいずれの場合にも蓄積されていくのである。徳の力は背後にある人々の思惑は全く無視して蓄積されていく。なぜならそれは純粋に力だからである。
そして最も重要なのは、徳の力を溜める事ではなく、それをどう用いるかと言う部分にある。どんなに高邁な思想が存在し、その思想に従って徳が貯められても、その使い道が正しくないのであれば、それは誤った徳の用いられ方であると言える。逆にどのような貯め方であっても、その蓄積された徳が善用されるのであれば、それは徳の使い方と言う部分に限ってみた場合に、正しい。
勿論、正しく貯めて正しく用いられるのが最善ではあるが、悪しき方法で貯められて善用される事と、良き方法で蓄積されて悪用される事…いずれが「望ましい」(全体を通して、である)かは判断の分かれる所であろう。勿論、悪しき方法で貯められて悪用されるのは最も悪しき事であるのは言うまでもない。
更に翻って考える、卑怯であったり不誠実である方法で善を成した場合、それは良い事であろうか? 悪い事であろうか?
反徳の方法を用いて善を成すのは、全体を通して見た時に善であるか、悪であるか?
私の論を丹念に読んでくれたのであれば、答えはおのずと出るだろう。徳は力であり、それ単独で尊い物ではなく、その背後にある目的によって善悪の判断がなされるのである。その目的をしっかり見据える事こそが重要であり、そこに至る道筋は善なるものであればそれに越した事は無く、そこに至る道筋が悪なる物であっても結果が善性を向くのであれば良しとされねばなるまい。
最初の問いに戻ろう。
あなたは駆け出しの冒険者である。包帯も残り少なくなり、体は傷で覆われるが如き惨状である。それでも尚、あなたは何かを守るために「あなたにとって強大である」モンバットを打ち倒さねばならない。あなたは剣を握り突進する…これは武勇であるか、否か?
あなたは古今東西稀に見る槍使いである。余所見をしていてもバルロン如きは赤子の手をひねるよりちょっと難しい程度の労力で打ち倒せてしまう…特に恨みや背負うものがある訳でもなく、あなたは気分(或いは稼ぎのために)でバルロンを打ち倒し続ける。これは武勇であるだろうか?
時に我々はその背後にあるものを無視して「現象」だけを気にする。時にそれが徳に合致するか否かで善悪を判断する。
反徳すなわち悪なのだろうか? 徳すなわち善なのであろうか? その様な事を考える私の心は既にバルロンに蝕まれているのだろうか?
日曜日, 11月 05, 2006
徳についての話 第一夜 「徳は目的ではない」
これから何回かに分けて徳についての話をしたいと思う。第一夜は「徳は目的ではない」と言う話。
何も素っ頓狂な事を言っている訳ではない。これは徳治政治が始まった頃から言われている事でもあり、第一級資料の「Virture」にも記されている事である。
徳とは、社会正義の実現や理想社会の現実化に際して、手段として或いは道筋として用いられるものである。そう、理想社会を実現する為には、徳の力が必要なのである。だから我々はより良い社会を見出し、築き上げる為に徳性を磨く事が求められる。徳の力無しにそれは達成不能なのである。
この事を知る多くの賢人たちが、徳の追求を求めて様々な修行を行ってきた。徳とは何ぞやと問いかけて来た。しかし、多くの賢人には自明のものであるにも拘らず、多くの人々に理解されていないある種の事柄がある。それは、徳の用いられ方である。
実に多くの人々が「徳」その物が善性を帯びているかのごとく感じ、徳を極める事がすなわち善であるかのごとく誤解をしている。そうではないのだ。徳そのものはある種の「力」に過ぎず、徳の力は用いられ様によっては悪をも引き込む。あなたはより多くの力を求めてフェルッカシャードのチャンピオンスポーンにチャレンジした事はあるだろうか? もしその経験がおありなら、殺人者と徒党を組む「殺人を犯した事の無い」悪党が、正義の徳を輝かせて略奪に参加し、その徳の力を用いてより多くの神秘の巻物を手にする様を見た事があるかもしれない。或いは名誉の徳を用いて敵の嵐の中を突き進み、名も無き冒険者を敵と共に屠る様を見た事があるかもしれない。それらに用いられている力は、まさしく徳の顕現であり、作用である。徳は理想社会の実現に欠かす事のできぬ道具の一つであるが、それはまた理想社会以外のものをもたらす事もあるのである。徳は、単体では道具に過ぎないのである。なるほど確かに徳はそれ自体である種の悪をなす者に対して理不尽なまでに冷たい仕打ちを行うが、徳自身は必ずしも善を志向しない。
徳は哲理によりてもたらされる「力」ではあるが、哲理ではない。その本質がある種の「力」である以上、それは他の力と同じく用いられ方によって様々な効果をもたらし、善も悪も…両方を引き込む可能性を秘めている。魔法も然り、剣の力も然り、言葉の力も然りである。それは力であり、力は単独で何かを志向する事はないのだ。
では、我々は何を求めてその力を用いるべきか…提唱者である国父ロード・ブリティッシュは明確に述べている。それは理想社会の顕現を目指して用いられるべきである。
そして困った事に…ソーサリアに徳が提唱されて以降数十年の時が流れているにも拘らず、我々は未だ「手段であるはずのもの」に梃子摺り、その目標とする「理想社会」について言及する事を怠ってきた。
ある国の武芸をよくする者は、こう語った。
月を指差すようなものだ。指先に囚われてはその先にある大いなるものを見落としてしまう。
我々は今一度、徳とは何か、徳が指し示すべきものとは何かを考えねばならぬ。その先にある大いなるものを見ずに指先にこだわり、指先の美しさ、その磨きぬかれた白魚の如き指の先にある爪の優美さに心囚われてはならんのだ。徳という道具を上手く使いこなし、我々はその先にある大いなるものを見つめねばならない。それこそが、提唱者ロード・ブリテイッシュの語る「徳治政治」であり、社会全体が目指すべき平和社会の実現に必要な事であると、私は考える。
何も素っ頓狂な事を言っている訳ではない。これは徳治政治が始まった頃から言われている事でもあり、第一級資料の「Virture」にも記されている事である。
徳とは、社会正義の実現や理想社会の現実化に際して、手段として或いは道筋として用いられるものである。そう、理想社会を実現する為には、徳の力が必要なのである。だから我々はより良い社会を見出し、築き上げる為に徳性を磨く事が求められる。徳の力無しにそれは達成不能なのである。
この事を知る多くの賢人たちが、徳の追求を求めて様々な修行を行ってきた。徳とは何ぞやと問いかけて来た。しかし、多くの賢人には自明のものであるにも拘らず、多くの人々に理解されていないある種の事柄がある。それは、徳の用いられ方である。
実に多くの人々が「徳」その物が善性を帯びているかのごとく感じ、徳を極める事がすなわち善であるかのごとく誤解をしている。そうではないのだ。徳そのものはある種の「力」に過ぎず、徳の力は用いられ様によっては悪をも引き込む。あなたはより多くの力を求めてフェルッカシャードのチャンピオンスポーンにチャレンジした事はあるだろうか? もしその経験がおありなら、殺人者と徒党を組む「殺人を犯した事の無い」悪党が、正義の徳を輝かせて略奪に参加し、その徳の力を用いてより多くの神秘の巻物を手にする様を見た事があるかもしれない。或いは名誉の徳を用いて敵の嵐の中を突き進み、名も無き冒険者を敵と共に屠る様を見た事があるかもしれない。それらに用いられている力は、まさしく徳の顕現であり、作用である。徳は理想社会の実現に欠かす事のできぬ道具の一つであるが、それはまた理想社会以外のものをもたらす事もあるのである。徳は、単体では道具に過ぎないのである。なるほど確かに徳はそれ自体である種の悪をなす者に対して理不尽なまでに冷たい仕打ちを行うが、徳自身は必ずしも善を志向しない。
徳は哲理によりてもたらされる「力」ではあるが、哲理ではない。その本質がある種の「力」である以上、それは他の力と同じく用いられ方によって様々な効果をもたらし、善も悪も…両方を引き込む可能性を秘めている。魔法も然り、剣の力も然り、言葉の力も然りである。それは力であり、力は単独で何かを志向する事はないのだ。
では、我々は何を求めてその力を用いるべきか…提唱者である国父ロード・ブリティッシュは明確に述べている。それは理想社会の顕現を目指して用いられるべきである。
そして困った事に…ソーサリアに徳が提唱されて以降数十年の時が流れているにも拘らず、我々は未だ「手段であるはずのもの」に梃子摺り、その目標とする「理想社会」について言及する事を怠ってきた。
ある国の武芸をよくする者は、こう語った。
月を指差すようなものだ。指先に囚われてはその先にある大いなるものを見落としてしまう。
我々は今一度、徳とは何か、徳が指し示すべきものとは何かを考えねばならぬ。その先にある大いなるものを見ずに指先にこだわり、指先の美しさ、その磨きぬかれた白魚の如き指の先にある爪の優美さに心囚われてはならんのだ。徳という道具を上手く使いこなし、我々はその先にある大いなるものを見つめねばならない。それこそが、提唱者ロード・ブリテイッシュの語る「徳治政治」であり、社会全体が目指すべき平和社会の実現に必要な事であると、私は考える。
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