月曜日, 11月 06, 2006

徳についての話 第二夜 「徳と徳の目指すもの」

全ての徳には反徳と呼ばれる概念がある。一見それらは一本のロープの端と端の如く対極に位置する概念と思われがちだが、果たしてそれは事実だろうか?
たとえば武勇にしても…ブリティッシュ王の玉座を基点として北に向かえば武勇、南に向かえば卑怯となるのであろうか? またその基点は常に磐石で定まった位置に在るのだろうか?

つまり私が言いたいのはこういう事である。バルロンは強い。あの漆黒の悪魔を弱者と考える者は少ないだろう。それに対して同系種族であるモンバットは弱い。弱さの指標として「お前はモンバットか?」と例えられるほどに弱い。しかしここで問題だが、駆け出しの冒険者がモンバットに死を賭けて挑みかかるのは卑怯で武勇の名に反する事だろうか? 或いはこう言ってもいい…バルロンは確かに強いが、幾つかの技術を習得して古代の遺産に身を包んだ冒険者の前には比較的簡単に討伐され得る存在である。その様な強大な力を手にした者がバルロンに挑み、ほぼ10中9.5まで確実に彼らを屠るのは、武勇を高める行為であるだろうか?
宜しい。バルロンを屠る彼の行為が武勇で無いとしよう。では彼がわざわざ装備を脱ぎ捨て、素手で彼らに挑み、そして10中9まで彼らに屠られるのは武勇であろうか? 私はそこに「驕り」を見出し、「愚かさ」を見出す。それは決して「勇気」の成す業ではなく、酔狂か、本当に酔っ払っているか、狂っているかであるとさえ思う。
翻って考えよう。武勇とはいったい何なのだろう?
武勇を磨こうと思って強靭なる鎧をまとい、剣を手にし、勝つべくして彼に勝つ事にどのような「武勇」があると言うのか?知り合いのある男はこう語った。剣で片のつく相手は「本当の敵」ではない。本当の敵には剣など効かず、本当の敵と戦うのに剣は不要であるとさえ言った。(最も、この言葉自体が孫引きであると言う話だが)
武勇と言うのは、そのマークが示すものとは異なり現実的な武力ではないのだと言う。
そう考えたとき…実際には雄々しく戦っているように見えても、実際のところそれは「武勇ではない」可能性が出てくる。
然しながら、現実問題として武勇の徳を極める為にイルシェナーで霊性のシャドウウィスプを虐殺するものも少なくは無く、その結果として武勇の騎士位を極めるものも多い。実際に武勇の徳の蓄積と武勇の心と言うのは一致しない場合があるのである。
ある場所である騎士が嘆いていた。献身の徳を積むべく人々をエスコートするものが居る。しかし彼は効率良く献身の徳を積みたいと考え、何とかして簡単に、楽に人々をエスコートする術はないかと悩んでいたと…彼は献身の徳を真の意味で身につけているのだろうか?
これも考え方一つではないか?
多くのエスコートを待つ人々がおり、彼は自由に世界を行き来できない人々が多数存在する事に心を痛めていたと。しかし彼の身は有限で、多くの人々を一斉に連れ回すことはできない…彼が真に人々を思いやり、彼らの苦しみを救済したいと考えて「もっと効率的にできぬものか…」と悩むのであれば、それは献身の名に相応しいだろう。単純に徳の持つ力に焦がれてそう考えているだけかもしれない。しかし現実問題として徳の力はいずれの場合にも蓄積されていくのである。徳の力は背後にある人々の思惑は全く無視して蓄積されていく。なぜならそれは純粋に力だからである。
そして最も重要なのは、徳の力を溜める事ではなく、それをどう用いるかと言う部分にある。どんなに高邁な思想が存在し、その思想に従って徳が貯められても、その使い道が正しくないのであれば、それは誤った徳の用いられ方であると言える。逆にどのような貯め方であっても、その蓄積された徳が善用されるのであれば、それは徳の使い方と言う部分に限ってみた場合に、正しい。
勿論、正しく貯めて正しく用いられるのが最善ではあるが、悪しき方法で貯められて善用される事と、良き方法で蓄積されて悪用される事…いずれが「望ましい」(全体を通して、である)かは判断の分かれる所であろう。勿論、悪しき方法で貯められて悪用されるのは最も悪しき事であるのは言うまでもない。
更に翻って考える、卑怯であったり不誠実である方法で善を成した場合、それは良い事であろうか? 悪い事であろうか?
反徳の方法を用いて善を成すのは、全体を通して見た時に善であるか、悪であるか?
私の論を丹念に読んでくれたのであれば、答えはおのずと出るだろう。徳は力であり、それ単独で尊い物ではなく、その背後にある目的によって善悪の判断がなされるのである。その目的をしっかり見据える事こそが重要であり、そこに至る道筋は善なるものであればそれに越した事は無く、そこに至る道筋が悪なる物であっても結果が善性を向くのであれば良しとされねばなるまい。
最初の問いに戻ろう。
あなたは駆け出しの冒険者である。包帯も残り少なくなり、体は傷で覆われるが如き惨状である。それでも尚、あなたは何かを守るために「あなたにとって強大である」モンバットを打ち倒さねばならない。あなたは剣を握り突進する…これは武勇であるか、否か?
あなたは古今東西稀に見る槍使いである。余所見をしていてもバルロン如きは赤子の手をひねるよりちょっと難しい程度の労力で打ち倒せてしまう…特に恨みや背負うものがある訳でもなく、あなたは気分(或いは稼ぎのために)でバルロンを打ち倒し続ける。これは武勇であるだろうか?
時に我々はその背後にあるものを無視して「現象」だけを気にする。時にそれが徳に合致するか否かで善悪を判断する。
反徳すなわち悪なのだろうか? 徳すなわち善なのであろうか? その様な事を考える私の心は既にバルロンに蝕まれているのだろうか?

0 件のコメント: